広島平和記念公園の紹介(「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」制作の「HIPの平和公園ガイド」より転載しました)
2.広島平和資料館(原爆資料館) 東館には被爆前後の広島の歴史を中心に紹介してあります。 被爆者の遺品や被爆資料を展示してあるのは西館です。 もともと資料館としては西館だけでしたが、被爆の悲惨さ・平和の尊さを伝えるためには、核兵器も非人道性だけでなく、なぜ広島と長崎が被爆地となったか、その理由と歴史を知ることも必要だということからも、東館の展示となりました。
3.平和大通り 戦前、このあたりは住宅地でした。戦争末期、日本の都市は毎日のように焼夷弾による空襲を受けていました。空襲時の火災の広がりを防ぎ、人々の避難道を確保するために、建物をあらかじめ取り壊して防火帯を作ろうとしていました。このことを建物疎開といいます。 原爆投下当日、広島市内や近郊から動員された人々に混じって、大勢の中学1、2年生などが平和大通りのあたりで建物疎開に従事していました。 爆心地に近かったこと、また屋外での作業であったことからこれらの中学生を含む多くの人々がそこで亡くなりました
4.広島県立広島第二中学校原爆慰霊碑 一・二年生とも建物疎開に動員されていましたが、私たち二年生は急に予定が変わって、被爆当日は東練兵場のいも畑の草取りに行ったので、火傷を負ったものの生き残りました。 一方、一年生300人は当日も現在の平和公園近くで建物疎開作業をしていて、全員が死亡しました。十七回忌の昭和36年8月にこの碑が建立されました。
5. 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) 形は、はにわの家型に造られており、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちを表しています。石室の中には死没者名簿が入っています。名簿には原爆でなくなった方やその後被爆者としてなくなった方のうち、名前が判明している方について記入されています。 2005年8月現在、およそ24万人の名前が記入されています。 死没者名簿には、日本人だけでなく朝鮮人やアメリカの捕虜など外国人の名前も載っています。 石室の正面には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。 これはすべての人々が世界平和の実現を誓う言葉として書かれました。
6.国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 国として原爆死没者を心から追悼し、永遠の平和を祈念するために作られました。 原爆の惨禍を世界の人々に知らせ、その体験を後代に継承するための施設です。 午前8時15分を示すモニュメントの回りにある瓦礫は、祈念館を作るときに出てきた被爆瓦など当時のものです。 祈念館の内部には、爆心地から見た被爆後の街並みを14万のタイルで表現した「平和祈念・死没者追悼空間」があります。 14万というのは1945年末までの原爆死没者数と同じ数です。 体験記閲覧室では、被爆体験記や原爆死没者の遺影を公開しています。 約10万点の体験記が収蔵されており、自由に検索・閲覧できます。 また、証言ビデオや被爆当時の写真・映像も見ることができます。
7.原爆の子の像(千羽鶴の塔) この像は原爆で死んでいったすべての子どもたちのために建てられました。 この像が建立されるきっかけとなった佐々木禎子さんがモデルです。 彼女は2才の時、爆心地から1.6キロメートルの自宅で被爆したのですが、奇跡的にも無傷でその後も元気に成長しました。 運動会のリレーではアンカーを走るほどずばぬけて足がはやく、とても活発で人気者でした。 被爆して10年後、彼女が小学校6年生の時急性白血病になり、広島赤十字病院に入院しました。 当時の医療では白血病の患者を救うことができず、患者はたいてい発病して一年以内に死んでいきました。 禎子は、自分が重い病であることに気づいていたのかもしれません。 彼女は「鶴を1,000羽折れば願いがかなう」と信じて、ひどい痛みに耐えながら、最期まで鶴を折り続けたのでした。 発病から約8ヵ月後、禎子は病気の回復を願いながら静かに息をひきとりました。 彼女の折った鶴が資料館に展示されています。 禎子の死は、彼女をこれまで支えてきた級友たちに深い悲しみを与えました。 当時彼女以外にも多くの子どもたちが原爆の後遺症で亡くなっていました。 残された級友たちは彼女のために何かしたいと思い、慰霊碑を建てようと決意したのです。 こうして子どもたちによる手づくりの募金運動が全国規模で始まりました。 禎子と千羽鶴の話は、その後、本や映画によって国内や海外に広く知られることになりまし これらは全国から修学旅行で来た生徒たちや世界中の人たちが平和への思いをこめて折ったものです。原爆の子の像とここに捧げられている折鶴は、今では平和のシンボルとなっています。 ここに碑文があります。 ”これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです。 世界に平和をきずくための」と書かれています。”
8.動員学徒慰霊塔 戦争の終わり頃、12、13歳の男女の生徒学生は建物疎開作業などに、14歳から17歳の生徒学生は軍需工場に動員されていました。 被爆当日、市内では建物疎開作業とよばれる、家を壊して防火帯を作る作業を行っていた生徒約8,400人のうち、約6,300人が原爆の犠牲となりました。 その犠牲者の霊を慰めるために遺族や友人らが中心となって1967年この塔を建てました。 レリーフの後ろを見てください。こちらの銅版には、全国の学徒動員で亡くなった生徒たちの学校名(私たちの広島二中を含む)343校が記されています。
9.原爆ドーム 元は広島県産業奨励館と呼ばれており、1915年に開館しました。 この建物を設計したのはチェコ人のヤン・レッツェル氏です。 ここでは広島県内の特産の展示や販売が行なわれていました。 やがて美術展覧会などが開催されるようになり、文学、美術、演劇の愛好家たちが集まるサロンのような場所ともなりました。 また、広島の名所として市民にも親しまれていました。 戦争が激しくなるとここは、官公庁や統制会社の事務所などに使われました。 この建物は、爆心地から北西わずか160メートルの至近距離で被爆しました。 爆風と熱線を浴びて大破し、内部は全焼しました。 しかし、爆風がほとんど真上から来たため、中心部は奇跡的に倒壊を免れました。 当日、この建物の中にいた人たちは全員死亡しました。 広島の街は見わたす限りの焼け野原となり、この建物のドーム型の屋根が遠くからも際立って見えました。 そのため、ここが目印となり、家族を探し求める人たちの伝言場所となりました。 屋根がドーム型をしているので、いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。 戦後、原爆ドームについては、「ノーモア・ヒロシマの象徴として残す」という考え方と、「危険建造物であり、被爆の悲惨な思い出につながるので取り壊す」という二つの考え方がありました。 原爆の悲惨さをいつまでも忘れないために、保存しようという声が強くなり、1966年広島市は原爆ドームの永久保存を決めました。 日本だけではなく海外からの多くの募金協力により、1967年、1989年、2002年に保存工事が行われました。 1996年、原爆ドームは世界遺産として登録されました。 第二次世界大戦に関する世界遺産は二つしかありません。 ひとつはポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所、そしてもうひとつがこの原爆ドームです。
|