その1
英雄は、ようやくまとめた『縄文暦122世紀――縄文維新が変えた未来』の草案を前に、高まる興奮を抑えきれなかった。2年後に採用される中学生用の現近代史の教材として文部省が広く一般公募した際に、たまたま英雄の応募した作品が難関をかいくぐって最終選考まで残ったのだが、続いて時系列に沿った指導要項化プランと全体を流れる中心的なキーワード、そしてその思想背景などを問う審査が数日後に迫っていた。
英雄が学んできた歴史教育の流れを見ると、日本では西暦20世紀に西洋から新しい教育システムが導入された後、21世紀に入っても当分の間、日本史・世界史(東洋史・西洋史)という横割にし、因果関係を無視したまま、歴史的事実を年代別に縦割りに表記するものだったようだが、今では一応日本中心であっても、コンピュータを利用して海外の歴史との関連を取り入れており、そこから自由に海外の歴史に深入りすることも可能になっていた。
英雄が歴史の教育に興味を持ち、とくに現近代史の研究に一生を捧げようと思い立ったのは、21世紀の後半から(日本だけでなく)世界中を襲った、人類滅亡をおもわす大カスタトロフィーの凄まじさと、その後22世紀から、日本の復興に命を賭けた「新縄文の志士」と呼ばれた人たちの活躍とその成果にもっと光を当てて見たいと思ったからである。
実は何代も前になるのだが、英雄の先祖の何人かも、そうした志士のはしくれだったようで、いつも祖父から先祖たちの、ワクワクするような活躍やエピソードを聞かされて育ったことが根底にあったようだ。
その2
歴史の大きな転換期は、やはり20世紀(〜2000)から21世紀(〜2100)という一大エポックとぴったり重なりあうようだ。日本だけでなくすべての人類にとって悪夢のようなカスタトロフィは、21世紀の中ごろから始まった。
まず東海地震、それに引き続いて起きた南海地震だった。いずれもかなり以前から予想されてはいたがその規模があまりに大き過ぎた事と、地震に対応できない古い建物があまりに多すぎたことと、加えて(それまでの例に漏れず)言われ続けられながらも一向に改善の進まなかった住宅群おほとんどが全壊し、しかも火災の餌食になったうえ、その直後に襲った津波がその被害を大きくしたのである。
ライフラインがズタズタになったことと、コンピュータとネット通信がまったく機能しなくなったことが致命的になったのである。 それからがまた大変だった。最大級の第二次関東大地震に加えて、フィリッピン沖で発生した海底地震による大津波が、九州から太平洋側の東北の手前までを襲うのである。
悪いことは重なるもので、日本各地で富士山や浅間山それに桜島など噴火が相次ぎ、噴煙による日光の遮断が生む冷夏到来で、農作物は壊滅的な被害を受けることになった。
とどめが中国長江の三峡ダムの崩壊であった。当初から「豆腐のようなセメント」と噂されていたのだが、それにダムサイトで地質が悪い箇所が数千という数で存在することが指摘されていたのを無視して強行されたことが裏目に出たのである。奔流となった黄色い巨竜は長江の中流と下流の都市を飲み込み、そのまま東シナ海になだれ込み、挙げ句の果ては、台湾から九州、そして裏日本の多くの都市を、水田を埋め尽くしたのである。
少子化に加え、明治・大正生まれ人が亡くなったあと、生活習慣病によって急速に平均寿命が低下していた日本では、世界的な災害のため、医薬品の絶対数が不足していたこともあって、細菌との接触を極端に嫌ってきた日本人は、災害の後を襲ったさまざまな伝染病によって、バタバタと死んでいった。
それに輪をかけたのが食料不足であった。21世紀の中頃には、食料自給率が30%を大きく割り込んで20%に限りなく近づいていたところへ、世界中を襲った大災害は、日本への食料供給を、容赦なく断ち切ったのである。
その3
21世紀のチャイナは、共産主義の上に、市場主義を接ぎ木したチャイナの経済は、環境悪化の昂進、農村部の疲弊からくるおびただしい流民、国有企業の大破綻、官僚や党高官の汚職や贈収賄の増加などなど、積み重なった幾多の矛盾が、北京オリンピック、上海万博と相次いで開かれた国家的イヴェントを契機にして、急速にその輝きを失っていった。
沈む船から逃げ出すネズミの如く、チャイナに進出していた外国企業が我先に逃げ去る中、軍部の強硬派は、破れかぶれの台湾侵攻を決行することになったのが命取りとなり、アメリカの第7艦隊と日本艦隊の連合部隊によって、脆くも敗北してしうい、21世紀の半ばを待たず、ついに中華人民共和国の崩壊につながっていった。
結局チャイナは、ゆるやかな連係を持った外縁国として、かつての内モンゴル・新彊ウイグル自治区それにチベットの3カ国と、黄河流域地帯・長江流域地帯・東北地方(旧満州)、四川・貴州・雲南・広西チワン族自治区という漢族と少数民族の連合体、それに台湾の五カ国という8つの共和国になった。
ようやく世界中の援助を得ながら、新チャイナ共和国だったが、そうした矢先に起きた悪夢が、三峡ダムの決壊である。中国の被害も日本に負けていなかった。多くの人たちを巻き込んで、上海を始め長江流域の巨大な経済都市群が黄色い汚泥の底に沈んでしまったのである。一方、逆に水位の低下した黄河流域や漢民族の農家が数千万人も移住した内モンゴルでは、砂漠化の進行と厳しい塩害による被害が相次いだ。
インドおよびバングラディシュでは、温暖化によって自然の大きな湖水ダムを作っていたヒマラヤやカラコラムなどの氷河が相次いで決壊、ここでも甚大な被害をもたらした。
その一方で乾燥化の激しいパキスタンでは、砂漠化と厳しい塩害が容赦なくこの地を不毛にしていき、インドとの間で繰り返された宗教間抗争も結局何も生み出さないまま被害を大きくしていった。 ヨーロッパやアフリカ大陸、それにアメリカ大陸のことは割愛するが、それぞれ大小の差はあれ、いずれも天変地異の被害をまぬがれることは出来なかったのである。
アフリカしかり。水によって破壊された東アジアとは裏腹に、何年も続いたアフリカの大干魃と相次ぐ内戦、劣悪な環境が生むいくつもの伝染病によって、21世紀の終わりを待たず、この地もまた全人口の半数を失うことになった。
かくして人類は、21世紀において、新しい生き方を見いだす代償としてわずかの間にその半数を失ったのである。
その4
22世紀はじめ、日本の人口は21世紀当初の人口の半分、約6000万人ほどに減っていた。日本始まって以来の大災害に直面した当時、多くの政治家も有能を嘔われた官僚たちもまったく無力だった。年功序列はまったく役に立たなかった。そうした時、立ち上がったのが、20歳から30歳未満の若者たちであった。彼らはネット通信を主体に、あらゆる情報媒体を利用して、日本中の若者に「日本を救おう!」と呼かけたのである。
災害の復旧には当時の自衛隊の若者が立ち上がった。彼らはなんら命令を下せぬ上官や地方自治体のリーダーを無視して、自らの責任で部隊をそして機材を動かした。国民は「維新クーデター」と呼んで熱狂して受入れた。その他の官庁でも、国土建設省の若手官僚を先頭に無能な上司を無視して積極的に斬新な政策を打ち出していった。
こうした若者の活動が呼び水となって、多くの若者が進んでこの「日本を救おう!」運動に加わっていき、新しい日本がゆっくりとだが確実に姿を現していった。そうした中で、自然にいろんな分野のリーダー的人材が生まれていったのである。
若者たちのリーダーは、「過去の歴史に学ぼう!」「かつて日本が遭遇した国難のつぶさな検証をしよう!」と呼かけた。彼らが取り上げた国難は、「縄文と弥生の遭遇」「新羅・唐連合軍との白川江での海戦大敗北」「元冦」「明治維新」「大東亜戦争の敗戦」そして20世紀の末から21世紀にかけての「平成バブルそれにチャイナバブル崩壊」という7つの国難であった。
彼らはそこにいたった理由や背景、事に当たっての対応やその理由、とくに失敗の原因を徹底的に分析し研究していった。 彼らをもっとも強く捉えたのが「縄文」という1万年におよぶ平和な時代と、そこから生まれた 「匠の技」であった。それは今まで基本的な日本文化とされてきたコメという「農」以前に花開いていたすばらしい「工」の存在であった。彼らが誰言うとなく導き出した結論は「縄文に帰ろう!」であった。日本の生きる道は、縄文に発する森の文化「工」しかない!という確信に満ちたものであった。
幕末そして明治という大きな変革時、開闢以来はじめて喫した敗戦という負のエポックに当たって、日本が期せずして選択した「農から工へ」という行動こそ、「弥生の農」から「縄文の工」への回帰だと確信したのである。
彼らは新しい日本復興の試みを「新縄文維新」と呼び、国民は誰言うとなく彼らを「新縄文の志士」と呼んだ。彼らは、なす術(すべ)をしらない老人に代わって圧倒的な支持を得て、新縄文党という政党名で国会に官僚職に、また地方の自治体に進出した。彼らは自分たちの任期を40歳までとした。それ以降、というよりほとんどの者がその歳までには第一線から退いて後輩の指導に当たり、正しい教育に努め、または国際復興協力隊の一員として働いたのである。
彼らが取り組んだ仕事は数多いが、もっとも大きな功績が官庁の改廃や再編成であった。まず防衛庁を国防省とした。そして当初の組織を国家防衛軍と国家復興軍の二つに分けた。その後国家復興の進展にしたがって、国家復興軍を解体して国際復興協力軍に置き換えていった。災害復興に活躍した土木機器や資材がそのまま海外でのいろんな需要に応えて大活躍したことは言うまでもない。
文部科学省は文部省と科学技術省に分離した。文部省にはあらためて国益に沿った「国と国民」という最大の命題への取組みと、日本語のもっと深い習得を命じた。科学技術省は、最先端平和技術の開発を民間タイアップしていくことを最大の課題にしたのである。
その5
ここで彼らの行った偉大な仕事を三つほど紹介しよう。
まず一つは道制の採用である。「州」という呼称も挙がったが、日本にふさわしいということで道が選ばれた。北から北海道・東北道・北陸道・関東道・東海道・近畿道・中国道・四国道、九州道、それに東京都、大阪府、京都府を加えた「1都・2府・9道」である。それまでの県の存廃は、各道に一任されることになった。
第二は天皇の京都への還都である。
まず京都が、あのはげしかった災害に奇跡的に無傷だったことと、あたらしい日本の目指す目標の一つである「観光立国」の象徴として京都がずば抜けていたこともある。世界いや日本にとって、京都と天皇さんほどすばらしい象徴はない。防御や攻撃の術や設備など、いささかも持ちあわせない京都という伝統的で平和な町と天皇さん、これが日本という国のイメージを著しく高めることになった。奈良県がすすんで京都と合併したことは言うもでもない。
新憲法には、天皇のお仕事として、祭祇を第一に挙げることであった。古来政治も
祭祇も「まつりごと」と同じように呼ばれてきたのだが、それをここで明確に分離したのである。このことで、却って天皇の求心的象徴としての存在意義がいやがうえにも高まり、政界中が大いに賞賛することになった。
天皇の祭り事のお役目は、「社稷(しゃしょく)」の祭事であり、国民の安寧と、世界万国の民の平和と幸せの祈願であった。、「社稷」とは、日本の神々を祭り、五穀豊穣を祈念することである。
第三は「縄文暦」の採用である。 天皇の在位で決まる年号は無規則だから世界で通用する西暦とのつながりが稀薄で、併用も不自然であったため、もっと合理的な年号が要求されていた。そこで持ち上がったのが縄文時代を日本の歴史に取り込もうとプランであった。
縄文時代とは、もちろん縄文土器に発している。言うまでもなく縄文土器を造った人が縄文人で、縄文人が生きていた時代が縄文時代である。では縄文土器はいつごろ造られたのか? もっとも確実なものでは、約1万0600年ほど前だったようだ。それから約1万年間縄文時代が続き、以降弥生時代を経て後の2000年が私たちの歴史で学んだ日本の時代である。
そこでいろいろ協議された結果、半端を端折って西暦に縄文時代の1万年を加えるという「縄文暦」案が採用された。これなら西暦との互換性もいい。
実際縄文暦は22世紀から適用されたのだが、由紀男が主張したいのは、西洋や東洋とリンクした新しい歴史教育では、過去に遡って採用しようというものである。
その6
いま縄文暦一二XXX年の時点で、ようやく人口の減少は止まった。国内に棲む人は約五千五百万人、それにいろんな形で海外に棲む人が五百万人に達している。海外に棲む人の中でもっとも大き割合を占めるのが、国際協力事業団に所属するシルヴァーボランティアの人たちであった。
日本特有の技術的な問題を指導するのに英語だけでは通じない。そこで、かつては義務付けられていた英検資格を撤廃して、現地の人に日本語教育を行うことと組み合わせることで、現地で働きたいと希望する人が続出した。なにしろ物価が安く優遇される上、日本語がかなり通用するようになってきたので、技術移転に貢献しながら、何名ものメイドにかしずかれる優雅な生活で老後を過ごそうという人たちが増えていくことになった。
もちろんゆるい形ではあるが「ひも付きODA」も復活した。これはシルヴァーボランティアの活躍もあり、当該国の要求でもあったが、やはり日本の指導する技術は日本の「工」と結びつくことが自然であるということに帰着したのだ。その努力の結果、期せずして世界中で日本語通用圏が飛躍的に増えることになった。
その一方で、国の手厚い保護と奨励で伝統的な美術工芸が次第に復活していった。奈良・京都・金沢などに多い伝統的な店舗や工房などでは、目の青い人たちを多く見かけるようになった。日本文化に傾倒し、日本での永住を決めた彼らも、いまや立派な日本人である。
日本のお家芸である「発酵技術」にも、あらためて強い見直しと再投資が強力に行われた。減少した人口のせいもあって、すでに食料自給率は百%を回復し、充分な備蓄をしてなお余った食料は、海外の貧困国に有効に提供している。国策によって化学肥料の使用は徹底的に抑えられ。発酵学者と農学者が中心となった作物別肥料の研究が徹底的に行われ、生ごみと家畜や家禽の排泄物を発酵した堆肥を多用する土壌改良型農業が復活していった。放棄された山間農地も、たっぷり堆肥が使用されることで豊かな森林が復活した。
しかも堆肥だけでなく、生ゴミの乳酸発酵で有機酸を製造、そこから生分解性プラスチックが造られ、世界一のリサイクル国家に変身した。世界一の太陽光発電に加え、バイオマス発電も大いに普及した。日本近海で発見された大量のメタンハイドレードも、そのまま燃料にするのではなく、水素細菌を活用して水素を取り出して、燃料電池、コ・ジェネレーション(熱電併用装置用燃料として利用されている。
かつて100%輸入に頼っていた化石燃料資源は、ほとんど不要となり、今やは非常時用として冬眠中である。またプルサーマルによって比較的に高率化した原子力発電も順調の稼働し、その技術と費用は次なる「核融合」に着実に実を結びつつある。
また日本のジーン(遺伝子)バンクには、塩分に強いマングローブや、乾燥に強いサボテンの遺伝子を組み込んだイネやコムギの種子が出番を待っている。特に日本の植林技術は世界中で砂漠化の進行に悩む国々に、これも国際協力の一環として強力に移出されていった。
エネルギー資源にも増して枯渇が懸念された真水の問題にも、日本の技術が大いに活躍することになった。たとえば、逆浸透圧を利用した海水の真水化であり、発電所などの熱を逆に利用して、冷却を兼ねた真水製造装置など、続々新製品が開発されて世界中で活躍している。
その7
ここまできて由紀男は「フッ」と大きなため息を吐いた。まだどうしても解せぬことや、考えのまとまらないことがあったのである。
このように強力に日本復活に貢献した縄文維新の志士たちが、その再繁栄が見え出したころ、突然「自分たちの時代は終わった」として急にその組織を解体し姿を消してしまったのである。彼らが取り組んだ国難の研究のうち、「弥生に発するコメ文化存立の仕組みという古い社会・思想構造」が明治維新時と大東亜戦争の敗退のあともそのまま引き継がれたこと、それがグローバリズムへの対応の中で、狩猟→遊牧→神教へと引き継がれた西欧文化に完膚なきまでに打ちのめされたのが、物質的・精神的バブルの崩壊だというのが彼らの結論であった。
そのために彼らが残したのが、官庁だけでなくほとんどの企業を支配している保守的風土を打破するために、若手を中心とした内部対抗型「カウンターバランス・システム」と徹底的な部門間移動システムであった。こうして徹底的に実績本位で将来性への志向をはかったのである。
こうした組織が着実に動きだしたのを確認したあと、彼ら志士は、未練もなくあらゆる組織から消え去ったのである。
由紀男にとっては、「21世紀の大災害は自然現象だ」と割り切ったとしても、「なぜ縄文維新の志士が突然現れ、そして消えていったのか?」ということが大きな疑問であり、その解明は彼には荷が重いことであった。そこで由紀男が、由紀男なりに持ち出したのが「弱者」という視点であった。
そこで由起男が定義付けたのは、
1.「弱者」を取り込んだ時代
人類発生から、人文明確立までの約六〜五百万年の間、サルから別れたわれわれの先祖が、か細い 綱渡り続けながら、なんとかヒト生態系を確立できたのは、「弱者を排除せずに取り込んできた」ことである。その弱者がヒトの進化と発展にそれなりの貢献をした。
2.「強者」の時代
ナイル(エジプト)、チグリス・ユーフラテス(メソポタミア)、インデス (インド)、黄河 (チャイナ)という四つの古代文明が発生してから二十世紀の終わりまで、つねに「強者が弱者を 支配する」構造が続いた。
3.強者と弱者拮抗の時代 強者が弱者に打ち負かされたのは、直接的には超大国アメリカがヴェト ナムに敗退したことである。ところが、ほとんどの日本人はまったく気づかなかったことなのだが 日本人という有色人種が有史以来はじめて、(大東亜戦争の緒戦で)白人種を打ち負かし、彼らの 支配に呻吟する東南アジアの人を開放したのが真の要因であった。
以来強者が自信喪失し、20世紀の後半から21」世紀の中ごろまでには、人種的社会的マイノリティという弱者が大きくクローズアップされた。
4.オール弱者の時代
全人口を半減させるという、地球全体を襲った大カスタトロフィーが猛威を振るった21世紀の後 半から22世紀中、もうだれもが弱者になってしまった。
5.弱者も強者もない時代
その後日本で、縄文維新の志士が活躍して見事に復興を遂げ、それを見習った多くの国々も新しい 国造りを果たしたあと、もう強者も弱者もない時代になったのだ!
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さてその後、果たして由紀男の現近代歴史論が日の目を見たかどうかはさだかではない。
<注:>
*新チャイナ共和国は、「七つの中国」(王文山著 金美齢訳 文芸春秋社)を参考にして、それに台湾を加えて8国とした。